toggle
2023-11-30

大戦中の建物疎開の行政文書が見つかりました

昭和19年度「第3次建物疎開」の確証を見つけました

京都学・歴彩館所蔵

弊社の創業は大正13年(1924年)壬生相合町7番地と聞いておりました。その後、事業拡大により近隣(壬生辻町)に移転したものの、太平洋戦争による建物疎開(強制移転:道路拡幅)に遭い、現在地(下京区中堂寺北町19番地:以前は「西千本松原下ル」が公称でした)に移りました。昭和10年京都市電話番号簿、昭和17年同簿によって壬生相合町、壬生辻町を確認することが出来ましたが「建物疎開(強制移住)」の確証だけは見つけられず永年「創業者の記憶」に留まって居りました。

2024年が「創業100年」の節目であることから、日頃から事業の歴史を調べる機会が多くあり、その中で此度見つかったのが「京都府行政文書」です。公的文書でありますので確信できる証拠と考えることが出来ます。

それによりますと、昭和19年時点の弊社工場・居宅は「高辻坊城」でした。行政文書に「阿倉工場」「阿倉彌五郎」と明確に記載されています。地理的には「壬生寺」の100m南に位置します。「坊城通り」は今では「壬生寺道」と観光客には公称されるようになりました(バス停の名称:壬生寺の最寄り停留所が判り難かったのでしょう)。

創業者は「戦争の為に『放り出された(補償受けず)』」と絶えず申しておりましたが、調べたところ借家であっても「補償金」の権利がある こと、昭和25年頃にその権利が消滅したことの資料を見たことがあります。その権利が消滅していなければ、維持費を要する「京町屋」の改修に活用できたであろう、と残念でなりません。

 

関連記事